(一社)対馬観光物産協会ブログ

対馬の観光物産情報をお伝えします。
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対馬の式内社をめぐる2 〜神功皇后関連の神社群〜
 こんにちは、局長Nがお届けする、対馬の開けてはいけない扉『神社マニアックス』神功皇后(じんぐうこうごう)編です。
 神無月が半分過ぎたのに、韓国出張などでさっぱり進まないこの企画、大丈夫なんでしょうかね?(殴)

 さて、今回の主人公は、あの「神功皇后」です。
(「知らねーよ!」という声はおいといて)

八幡宮
八幡宮 (対馬市厳原町中村)

 神功皇后は、日本ではお稲荷さんに次いで多い「八幡(はちまん)神社」(約7,800社。著名なものは宇佐神宮、石清水八幡宮、筥崎宮、鶴岡八幡宮など)や、参拝者が年間200万人超の宮地嶽神社(福岡県福津市)の主要な祭神で、神戸の廣田神社長田神社生田神社などの有名な神社が創建されたのはすべて神功皇后の三韓征伐凱旋に由来するものです。

 さらに、住吉大社(大阪府大阪市)などの住吉神社(約600社)にもよく祭られており、京都祇園祭の山鉾のひとつ「船鉾」(ふねほこ)は神功皇后伝承がモチーフになっています。

 さらに、さらに、福岡県糟屋郡の宇美町(うみまち)は皇后が子を「産んだ」ことに、志免町(しめまち)は皇后が「おしめ」を換えたことにちなむなど、北部九州にかずかずの地名伝承を残しているのです。

 続けますが、大丈夫でしょうか?(-_-;)?

 
 では、いったいいつごろ存在し、何をして、対馬とどう関わりがあるのかといいますと・・・。

 説明が長い時はWiki様におまかせ(殴) 
神功皇后(Wikipedia)

で、ダイジェスト。
・神功皇后は、「古事記」「日本書紀」などに登場する2〜3世紀ころの人物。
・シャーマンの能力があり、神託を受けて海を越え、朝鮮三国(新羅、高句麗、百済)を服属させた「三韓征伐」の物語が有名。

 さて、その三韓征伐前後のお話が凄くて怖くて面白いのです。
(以下、古事記)
1.仲哀天皇と神功皇后が九州征伐に向かう途中、皇后が神がかりになり、「西(の海の彼方)に財宝に満ちた国がある。そこを支配しよう」という神託を受ける。
2.天皇は「高い山に登ってもそんな国は見えない。海だけだ」といい、皇后(に憑いている神)の言葉を疑い、神具である琴の演奏をやめる。
3.皇后(神)は怒り、「この天下はお前のものではない。黄泉(よみ)の国へ行け!」と告げる。
4.怖れた重臣が天皇を諌め、琴の演奏を続けるように進言し、天皇はしぶしぶ従うが、まもなく琴の音がしなくなり、重臣が灯りを点すと、天皇はすでに崩御していた(-_-;)

(以下、日本書紀)
5.皇后は天皇の死を秘し、自ら男装し、全軍に檄を飛ばし、海を越えて新羅を征服。百済・高句麗も怖れて降伏。このとき皇后は妊娠していたが、石を腰にあてて出産を延ばし、覇業を行った。

 お隣の島・壱岐には、「天皇の異母弟の十城別命(とおきわけのみこと)は、三韓征伐に参加したが壱岐で敵前逃亡。怒った皇后の矢を背中に受けて死亡。印通寺(いんどうじ)は「射通し」に由来する」という地名伝承があります。

 総合すると、海外出兵したくなかった非戦派の仲哀天皇(とその異母弟)が、主戦派の神功皇后(とその仲間)に粛清されてしまったようにしか読めないんですけどね(-_-;)

 神がかりになって海を渡り、男装して外国の軍勢と戦い、石で出産を延ばし、自らも日本全国の神社に祭られるようになった、そんな激しい神功皇后ですが、三韓征伐の際には当然航路上にある対馬に立ち寄っており、その伝承地が対馬各地にありますので一部を紹介します。

腰掛岩
 最初の上陸地は、対馬市厳原町(いづはらまち)の南端・豆酘(つつ)!
 上陸した皇后が腰をかけて休んだ、という腰掛石があります。

神住居神社
 豆酘の行宮(あんぐう。天皇・皇后が移動の際に住む一時的な宮殿・建物)は、多久頭魂(たくずだま)神社境内にある神住居(かみずまい)神社。
 豆酘の船浮神事(ふなうかし。別名カンカン祭り)は、赤船と白船に分かれて子供たちを捕まえる行事で、これは皇后が新羅の軍勢を捕虜にした伝承にちなみます。

雷神社
 豆酘には、皇后の重臣「雷大臣」(いかつおみ)をまつる雷神社があります。古代の占いの技術「亀卜」(きぼく)を対馬に伝えたとされる人物で、厳原町阿連(あれ)の雷命神社、美津島町加志の太祝詞神社の祭神でもあります。

 皇后一行は、豆酘から内院(ないいん)・久和(くわ)を経由して、久田道へ。(それぞれに神社があります)

与良祖神社(拝殿)
 厳原町久田道(くたみち)の与良祖(よらのみおや)神社。皇后が神事を行い、凱旋後にも再拝したところ。
 祭神の豊玉姫が、「新羅は外側は強いが内部が脆い。急襲せよ!」と神託を下します。

与良祖神社(奥の院)
 私は霊感など一切なく、神社を100社以上めぐっても、イベント時に雨を降らせる能力を身につけた程度だったのですが(ある意味、最悪)、写真のご神体周辺にはとんでもないものが潜んでいるような、ピリピリした空気が漂っています。迂闊には近づけません(-_-;)

 対馬市役所前の与良石(よらいし)は、もとはここが海岸で、皇后の輿を据えたところ。現在、発掘調査中。

腹冷やし石
 神功皇后の腹冷やし石をまつる志良石(しらいし)神社は、現在の対馬市交流センターの敷地内にありました。
 現在、何の説明もないまま石だけ移設されてます。

浜殿神社
 浜殿神社は行宮。いまは市街地(市役所・交流センター近くのバス停)ですが、4世紀ころにはここが海岸線で、海の大神・豊玉彦(豊玉姫のお父さん)が祭られています。

 皇后一行は厳原本川から上陸し、陸路を阿須(あず)へ。

 皇后の笠が飛んだので「笠渕」(かさぶち)!

 皇后の裳が濡れ、切り捨てたので「截裳渕」(きりもぶち)!

 皇后の軍勢が平石で剣を研いだので「砥石渕」(といしぶち)!

 ちなみに阿須の地名は、皇后の水先案内人(神)である「安曇磯良」(あずみのいそら)に由来。
 磯良は豊玉姫の子とも言われ、普段は海底に棲んでおり、顔に貝類が付着して醜いのを恥じて皇后の招集に応じなかったのですが、やがて皇后に協力し、活躍します。
 もとは福岡県の志賀島周辺で海洋民が信仰していた神で、志賀島〜壱岐〜対馬あたりが活動圏だったようです。
「シカ」や類似語の「シコ」「シキ」は海を意味するようで、対馬でも「志賀島」「志古島」「敷島」などの名称の神社はほぼ海の神を祭っています。

阿須神社
 写真は阿須神社。本殿だけというシンプルなデザインが逆に格好いいです。

 皇后一行は美津島町大船越沖で雷雨に遭遇し、船を岸につないだので、「綱掛」崎。

根緒
 美津島町の根緒・緒方の宗像三神は海流を鎮めるため。

 赤島の八点島は、皇后が平穏祈願のため船を海に投じたところ、岩と化したところ。
 雷浦は、雷が落ちたところ。

鴨居瀬・住吉神社
 鴨居瀬の住吉神社は、皇后の行宮。

 豊玉町の千尋藻(ちろも)の地名は、皇后が馬糧の代わりに海藻を馬に食させたことに由来。

千尋藻のいわつるぎ神社
 伊和津留幾(いわつるぎ)神社(かっこいい名前!)の祭神は、オオナムチ=別名オオクニヌシで、出雲大社の主神ですが、なぜかこのあたりには出雲系の神々が祭られています。

 入彦神社の祭神は建布都魂神で、皇后が親祭された場所。

 櫛は、皇后が玉籖入彦命(たまくしいりひこ=コトシロヌシ)を祭られたところ。

 葦見の能理刀神社境内の仮殿神社は皇后の行在所。葦見(あしみ)は、皇后が鷲を見て吉凶を占ったため、鷲見→葦見。

コロク神社
 上対馬町の琴崎(きんざき)で皇后の船は2回目の嵐に遭遇。船が破損しますが、さきほど登場した海神・磯良(いそら)が大きなアワビを貼り付けて応急処置。
 どんなでかいアワビなんだ。

 西泊の古津麻神社に寄り、和咡の津(わにのつ。上対馬町鰐浦(わにうら))の本宮神社へ。

韓国展望所1
 鰐浦から、朝鮮半島に渡りました。

韓国展望所2
 鰐浦からは、日中でも朝鮮半島が見えたりします。


 神功皇后は朝鮮半島を制圧し、凱旋後、世継ぎとなる応神天皇を出産します。

 皇后の外征伝説は、その後日本が外国の圧力を受けるたびに「復活」することになり、特に大陸に近い対馬・壱岐・北九州一円でさまざまな伝説が生み出されていったようです。

 ちなみに対馬の国指定特別史跡・古代山城「金田城」は、地元では皇后の出城だと信じられていました。

 また、対馬空港のある美津島町鶏知(けち)の地名の由来は、鶏が鳴いて皇后に集落があることを知らせた=鶏知だとされています。

 最大の謎は、皇后は往路も復路も東海岸を通っており、中世に八幡宮の中心であったはずの対馬一の宮「海神神社」(峰町木坂。対馬の西側)に実は立ち寄っていない、ということです。


 >>対馬の神功皇后伝説をたどる(Googleマップ)



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記事カテゴリ: 対馬の式内社をめぐる

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