(一社)対馬観光物産協会ブログ

対馬の観光物産情報をお伝えします。
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「対馬三聖人」〜偉大なこっぽうもんたち〜
明けましておめでとうございますm(_ _)m
「食」担当のTです。本年もよろしくお願い申し上げます。
さて、今回は【番外編】として「対馬三聖人」の墳墓巡りをお届けします(^ ^)
取材日の気温に怖気づいたわけでは決してありません。(この日の最低気温−2℃・・・(> <)/ )

凍えながらまず向かったのは、厳原町久田道(くたみち)にある海岸寺(かいがんじ)です。
こちらには、「賀島恕軒(かしまじょけん)」が祀られています。


賀島恕軒(兵介) 1645年〜1698年 没 53
1675年31歳の時、田代(今の佐賀県鳥栖市)領の副代官となる。
飢餓に苦しむ領民にはコメを与え、洪水に苦しむ領民のために堤防を造るなど、
領民のための施政を行ったことにより、人民には慈父のように慕われた。


事務所から徒歩で約10分、目的のお寺までここから100mの道標。


振り返ってみると・・・

イカのメリーゴーランド!(^ ^) 
 

坂を上って海岸寺に到着です。


案内に導かれると・・・鎮座してあります。



この方、田代の副代官からその後対馬の大目付となるのですが、その頃の対馬藩は絶頂期で有頂天。
1687年には対馬藩を思うあまりに「三十四か条の弾劾文」というものを藩に提出します。
一説には、家老を糾弾するもので藩政批判ではなかったようなのですが、
結果的に藩主義真(よしざね)を批判したことになり、狂書とされ伊奈(いな)村へ流罪になってしまいます。
賀島家も対馬藩によりとりつぶし、伊奈村に幽閉されたまま53歳で亡くなります。
おかしいことをおかしいと時の藩主に直言することにより、
藩主の逆鱗に触れてしまいその力を発揮することができなかったのです。

なお、現在でも毎年4月9日には鳥栖市と基山町の「賀島公顕彰会」により賀島祭が開かれています。
対馬では評価される実績をあげることなく亡くなってしまいましたが、
対馬藩の当時の飛び地では、善政により本当に慕われていたということがよくわかります。

通り道。

 
 中矢来                                 漂民屋跡

次に向かったのは厳原町大手橋(おおてばし)にある修善寺(しゅぜんじ)です。
こちらには「陶山訥庵(すやまとつあん)」が祀られています。
 


陶山訥庵 1657年〜1732年 没 75
主に農政方面で活躍した儒学者。
対馬藩の朝鮮貿易は、当時衰退していく一方だった。
藩財政も破綻しかけていたことから、貿易に頼らず農業によって対馬を自立させることを計画。
そのためには、まず農作物を食い荒らすイノシシを根絶させる必要があり、
「生類憐みの令」が発せられていた時代にありながらも、農民たちを説得し根絶を達成させる。


ここでも案内に従い、階段を上っていくと・・・鎮座しておりました。


イノシシを根絶するために農民に銃の扱いを教え、対馬を九区画に分けて一区画ずつ確実に根絶させていきました。
この結果、10年かけてイノシシ8万頭の退治に成功します。
これはエリア戦略・ランチェスター戦略として、現在の経営学にも通じるということのようです。
徳川将軍の命でもある「生類憐みの令」、それを無視してまでも農民を守るためにイノシシ退治をするのは何故か。
実は農民に銃の使い方を覚えさせたのは、イノシシ退治を名目にしながら
あらゆる外敵から、島を「自らの力で守るための術(すべ)を身に付けよ」、という裏の理由があったともされます。


ここで昼食です。【対馬バーガー KiYo】さんで(^ ^)


対馬バーガー

イカはプリプリしてて、対馬のヒジキが練り上げられたパテも絶妙です!
まず何よりバンズが美味い!

とんちゃんバーガー

とんちゃんとバンズの相性が最高です!

それぞれ、ひとつでお腹いっぱいになるのに、ふたつも一気にペロリ (0^ ヘ ^0) でした。
ごちそうさまでした(^o^)/


さて、三聖人。
次に向かうは、厳原町日吉(ひよし)にある長寿院(ちょうじゅいん)です。
こちらには雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)が祀られています。
 


雨森芳洲 1668年〜1755年 没 87
江戸中期の対馬藩の儒学者。
26歳で対馬藩の朝鮮方佐役となり、日朝外交の実務に精通。
『交隣提醒』にて「互いに不欺、不争、真実を以て交り候を誠信とは申し候」という誠信外交の道を説く。


墳墓を目指しますが、とにかくひたすら山を登ります・・・(^ ^;)
膝がガクガクなりながらも到着。鎮座しておりました。

この方対馬藩はもとより、朝鮮通信使関連で幕府との折衝にも尽力をした人なのです。

対馬三聖人の墳墓巡り・・・
私にとって新年一回目のブログ更新にあたり、ありがたい仕事をさせていただきました。感謝です!(^ ^)
今回は対馬三聖人にこだわりましたので、
今後の「宗氏」の墳墓巡りでも重複するところもあろうとは思いますが、なにとぞご容赦を。(続かせますよ〜)


〜標題にあります「こっぽうもん」とは。
訥庵は、流罪となった恕軒に対し「間違ってはいない」と尊敬し、大事に際しては恕軒の意見を聞いていたそうです。
また、芳洲は訥庵のことを
「先生と語っているときは汗が常に流れ、終わって門を出るときには大息を吐いてしまう」
と言いながら、常に論戦を交わしていたという・・・(^ ^)
本当に対馬を愛するがゆえに自我を曲げず、その後の道を開いてくれた偉大な「頑固者」のことです。



【お問合せ先】
対馬バーガー KiYo
TEL 0920-52-0873
記事カテゴリ: 対馬の歴史

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